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震災アルバム

東日本大震災関係の写真です。
私自身、実家が被災していることもありまして、2011年はやたらと被災地に行っており、写真も大量にあります。
ちょこちょこ追加して行こうかと思います。


2011/3/11

私は東京都渋谷区の会社で仕事中だったのですが、かなりひどい揺れを感じました。
地震の後、宮城の実家に電話してみたのですが、全く通じません。しばらく何度もかけてみたのですが、通じる気配すらありません。
しかし16:25に、母からメールが来ました。

日付:2011/03/11 16:25
件名:津浪
本文:三人は無事

こんだけです。この時点では津波のことなんて知りませんから、「は?」と思ったのですが、だんだんと増えてくるニュースから、状況が薄々わかってきまし た。
ちなみに実家よりちょいと海寄りな場所がこんな感じ↓
http://www.youtube.com/watch?v=aAIj2fws5O4

とりあえず家族の生存が確認できたので、一安心。この日は私自身も帰宅難民状態だったので、あんまり心配している余裕もありませんでした。
そして何とか京王線や色々乗りついて帰宅に成功。

2011/3/12

宮城にいるダイビング仲間から次々連絡が入りました。
女川も志津川も壊滅状態だとか。災害ダイヤルは全然役に立たない。もう何がなにやら。
しかし昼過ぎ、災害ダイヤルで家族と離れていた下の妹の無事を確認。

2011/3/14

この日は計画停電で電車が止まって出勤停止。家にお籠り。
GoogleEarthで実家近辺の様子を確認。家自体はまだ残っているが、周囲はひどい状況。
夕方になってようやく下の妹からのメールが到着。実家の他のメンバーと直接会えた。今は炊き出ししているとのこと。
そして3/15も計画停電で出勤せず。

さらに色々あって3月末、ようやく故郷に足を踏み入れました。



改めて間近で見ると大変な有様になってました。この辺は火災にも見舞われた地域です。



初めてこの光景を見たときは愕然としました。
4月頭、この後、延々と石巻の被災のシンボルみたいに扱われている「鯨の大和煮」です。
この頃はまだ松の樹が残っていました。





罹災証明等の申請のため、実家の写真を撮りに行ったのですが、まず実家に近寄るルートが難しいのです。
上の写真のように、所々道がふさがっています。




なんとか実家にたどり着いて、勝手口から進入しました。ヘドロの悪臭がきつい。
玄関は上の写真のような状態になっていました。



客間ですが、瓦礫が流れ込んで大変なことになってます。
実は遺体も流れ込んでる可能性がある、とはこの時は気づいていませんでした。



2階に上って外を眺めるとこんな感じでした。何件かの潰された家屋や車が、実家の庭に向かってなだれ込んできてます。
よく崩れなかったなあ、とちょっと感心。




母に頼まれて、母の友人宅を確認に行ってみたのですが、何も残ってませんでした。
満ち潮で海水が流れ込んできてます。



東松島市の東名に墓を確認に行ったのですが、墓石がすべて吹き飛んでもう何が何やら。
ちなみに写っているのは父です。



これはまた別な場所のお墓。墓石は吹き飛んでませんが、車が石の間に刺さってます。



女川まで行ったらこんな光景が見れました。ちなみにいつも潜っていた、石浜へ向かう道路脇です。



東松島市の東名。郵便局があったはずなのですが…。
痕跡しか残っていません。




志津川で驚いたのはこのSLでした。海の近くの公園にあったはずなのですが、結構内陸まで流されてきています。



GW。実家の庭に押し寄せた瓦礫が大分片付いてきました。
しかしここまで約2ヶ月、ヘドロに埋もれたままだった家はもう、基礎も柱も腐って使える状態ではありませんでした。

この後、実家の中の整理は自衛隊にお願いしました。
遺体が流れ込んでいる可能性があるためです。
結局、遺体は発見されませんでした。




8月。石巻市の漁港方面、瓦礫の山の近くに被災したトトロが放置されていました。
ちなみに私の中学の同級生の遺体が見つかったのも7月頃。それまで放置されていたことになります。




11月。石巻市の湊中学校を遠くに望む場所。潰れた民家がすっかり片付けられて、荒野になっています。
塩害に強いユウガオの花が咲いています。



上の写真は、2011年の4月初頭です。
中央の畳が敷かれた場所をたどって進まねばなりませんでした。




上の写真は同じ場所の、2012年5月の姿です。崩れた家は取り壊され、すっかり片付けられてしまいました。
残っている家もありますが、人が住んでいる家はわずかです。他はヘドロにまみれたまま放置されています。
(自治体に申告しないと解体されないので)



10月、実家も隣近所もまとめて解体されました。すっかり更地です。
右手奥にある民家は、私が子供の頃は駄菓子屋さんで、毎日のように通っていたのですが、家族全員遺体で発見されました。




さらに解体が進み、前の写真だと奥にあった工場や駄菓子屋さんもなくなりました。
市の計画だとこの辺は道路になるのか宅地になるのか産業地域になるのか微妙なところ。

ちなみに私の家族は仮設住宅を経た後、中古の住宅をリフォームして住んでいます。